私が考える、私という欠陥存在。
■ これは
愚かな私の存在を記したものです。ずっと引きずっていてどうしても書かずにはいられませんでした。正直言って見る価値もないかもしれません。醜い私を許して欲しいだけなのかもしれません。別にこれを読んで私のことを軽蔑して頂いても結構です。きちんと言葉にして自覚出来た今言葉にせずにはいられませんでした。読みたい方だけどうぞ。
■ 私の欠陥
私は生きていく上で最悪な欠陥を持っています。
それは、『先天性達成感欠損症』及び『先天性反省欠損症』、さらには『近親空虚感情欠損症』とでも呼ぶべき私が勝手に名付た病気の数々です。
実際、病気なのかどうなのかもわかりません。
■ 先天性達成感欠損症
文字通り、生まれたときから何をやってもほとんど達成感が得られないのです。
それは長期的なもの、さらには苦痛を伴うものほどにより顕著に現れます。
おかしな話ですね。普通は長期的で苦痛が伴うほど達成感というものは大きくなるというのに。
それに伴って、やる気が起きないことも多々ありすぎます。
自覚し、言葉に出来る今更になって虚しさを感じます。
もういくつもの後悔をしてきているというのに・・・・・・
■ 例えば
非常に簡単なもので行きましょう。それは小学校の夏休みの宿題です。
普通、夏休みの宿題というものは量が多くて大変ですよね。勉強好きでもないかぎり普通は苦痛に感じるものです。
良識のある子供ならば、きっと早目に終わらせようとするはずです。
でも、私はそうではありませんでした。何故か?
別に私は宿題を最初から最後にしようと考えている悪い子供ではありませんでした。
毎回の長期休暇で何回も経験しているのに宿題を終わらせた後の達成感がなかったのです。
やらなければいけないことはわかっているはずなのに、後で苦労することがわかっているはずなのに、どうしても達成感の無さが私の動きを止め、短期的悦楽(ようするに遊び等)に負けてしまうのです。
そのせいなのか、いつも私は宿題をギリギリで終わらせていました。無論、達成感は微塵もありませんでした。
私の心が弱いだけなのかなぁ・・・・・・
■ さらには
こんどは逆に喜んでいいはずの例です。吹奏楽での発表会です。
吹奏楽と言うものは協調性が非常に重要です。
というのも、一つのミスが、一人のミスが全体に響くからです。
それでも精一杯やることが演奏者としての意義だと私は思っています(そのはずです)。
それをメンバー全員でやり遂げることは何よりも大きな意義だと思っています。
皆で頑張ってきた集大成を出すことなのですから。
そう、そのはずなのに私は演奏を終えた直後、もっとも感情が高ぶるべきところで、しかし心は凪いでいます。
達成感が湧いてこない。どうしようもなくわからない。
涙を流す友人がいても、私は感動すらしていない。
ああ、終わったなと思うだけ。
やったー! などとは微塵も思わないのです。
演奏自体は好きなのです。皆と一緒に合わせる事も好きなのです。でも、発表会の達成感は無いのです・・・・・・
それがどうしようもなく、虚しい。
■ ちなみに
高校・大学受験で受験を終えたあとに、合格がわかってもやはり達成感を実感することはありませんでした。
当然、やる気も出ていないので、私は勉強があまりできません(理解は早いほうでしたが)。
勉強として一番基本になるはずの復習という行為すら、達成感の無さの前には(私にとって)無力です。
受けれる最高レベルの学校を受けて、ああ、受かったなと思っただけ。
喜びも涙もありませんでした。
本当に、ただそれだけだったのです。
いつになったら実感できるかな・・・・・・
達成感ってなんだろう・・・・・・
■ 先天性反省欠損症
これは、先ほどの先天性達成感欠損症に合わせて併発している感じの病気です。
これはさっきの長期的ではなく短期的なものほど可能性が高いです。しかし、だからといって長期的なものが例外ではないのです・・・・・・
■ 短期的なもの
私は恐ろしい程に嘘を付きます。しかも、正誤を織り交ぜたバレにくい、しかも出来る限り整合の取れた嘘を。
人のために付く嘘もあるにはあるのですが、自分の為に付く嘘の前には霞みます。
それでいて、私は偽善者めいた行動を取ります。薄っぺらいプライド(そんなものあるのかな?)が邪魔をして偽悪者すら出来ない有様です。
それで失敗して酷く怒られても、後悔はするのに反省は出来ていないのです。本当はしないだけで甘えているだけなのかもしれませんが・・・・・・
深く考えなくても、ただのバカです。ちゃんとすればいいだけなのにそれが出来ない。
反省しようと思うのに心が動かない。何をやっても達成感が得られないから。
そして楽をしようとする。わかっているはずなのに。そんなことに意味がないと。
でも、やめられません。どうしても。どうすればいいのか、わからない。
■ 長期的なもの
達成感が得られないために努力、つまり物事を積み立てて達成する、ということが私には一切出来ません。
じゃあ、今までどうやってきたのか?
簡単です。騙し騙しうまくやってこれたにすぎません。
そして、やがて大きな後悔が訪れるというのにそれでも私は自分を省みることが出来ません。
ああ、こうなっちゃたなぁと、思うだけなのです。
正直に言います。私は醜い。どうしようもなく。
■ 近親空虚感情欠損症
これは私の欠陥の中でも極めつけとでもいうべきものです。
上記の2つと関係が無いからと言って、決していいものではありません。
簡単に説明すると、近親の物事に対して大きな感情が動かないのです。
■ 私は
テレビでやっているような、不治の病にかかっている人たちの話を見聞きしていると涙が何故か出るのです。
本を読んで感動すると涙が出るのです。
いい音楽を聴いても感動するのです。
遠い話、または空想、芸術なら泣くことは一応出来るみたいです。
でも、何故か近親では・・・・・・
■ 虚しい
正直こんな例は挙げたくないのですが、私の家族が飼っていた愛犬がいました。
ある日、父が捨て犬を拾ってきました。
家族一同は驚いたものの飼う事になりました。
サクラと名付けたその犬を家族全員で可愛がりました。
もちろん、私もよく散歩に連れて行ったり、仲良く添い寝したり、ご飯を上げたりして家族の一員として共に過ごしてきました。
しかし、ある日事件は起こりました。それは、私の見ていないところで。
家族が散歩中に紐を外したときにサクラが勢いよく走り去ってしまったのです。慌てて追ったのですが見失ってしまったそうです。
そしてその間にサクラはうっかり野犬対策用の毒入りの餌を食べてしまい、瀕死の状態になってしまいました。
私が見たときのサクラは今にも死んでしまいそうなほどに弱っていました。
それでも、撫でてあげると嬉しそうにするのです。私の方を見返してくれたんです。
そしてサクラは病院に連れて行かれ、治療を行ないました。しかし、時既に遅く、もはや手遅れでサクラは死んでしまいました。
そしてサクラは戻ってきました。冷たくなって。
冷たくなったサクラに触れて、ああ、逝ってしまったんだなぁと思いました。
命あるものはいつかは失われるのだとわかりました。
それでも、私は泣きませんでした。大切な命が失われたのに・・・・・・どうして、どうして・・・・・・・
これを書いている今は泣ける・・・のに・・・・・・・・・・・・・・・・・どうして。私は、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私は・・・・・・・・・・・
祖母が亡くなった時もやはり・・・・・・・・・・・
でも、今は泣けると言うことは少しは成長したのかなぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は壊れてない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のかなぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もうわからないや・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■ 正直なところ
私がブログを始めるきっかけとなったのはhobo_kingさんのところにコメントしたからだと思います。
hobo_kingさんの、優しくて、誠実な、こんな私程度の存在の話も真剣に聴いて答えてくれたことが嬉しかったからです。
馬鹿なことをいっても、嘘?を付いても、おかしな話でもきちんと考えてくれたhobo_kingさん。
ならば私も、せめて、手の届く所からやってみようと。
反省も努力も出来ず、心の在り様も欠けた私でも出来ることを。
ブログと言うささやかな形で。hobo_kingさんと同じようにとはいきませんが、私なりの形で。
人のために。何より自分のために。
■ 今ようやく
少しずつ積み立てるということができるようになりました。欠陥も自覚が出来るだけマシになったと思う。思いたい。
ブログという形に過ぎませんが、ようやく頑張れることを見つけられたのかもしれません。
自分の醜さを言葉に出来たのも、成長だと思うんです。
頑張れるだけ、頑張ってみますか・・・・・・
■ ひょっとしたら
また、色んな形で追記・編集するかもしれません。自分を見つめなおすために。