私が考える、自分の想い・考え方を言葉にするということは?
■ これは
ub7637さんの『挫折した。』を読んで、自分の想い・考え方を言葉にするということを私が考えてみたものです。別に心理学上とか人間行動学上とか難しい言葉で考えるつもりは毛頭ありませんので難しく考えないで下さい。直感的に書いてますので矛盾があるやもしれません。あったら指摘してあげて下さい。
もしよろしければ、是非皆さんの意見も聞かせて下さいませ。
ちなみに、ub7637さんの話とは関係あるようであまり関係ないかもしれないので、あまり関係性を深く追及しないであげて下さい。
■ 自分の想いは
曖昧模糊で説明できません。わかっているのに言葉に出来ないといったことが皆さんにもよくあるかと思います。
■ 言葉に出来ない想い
小説に限らず、マンガやアニメや映画など、様々な場面でよく体感しますよね?
そもそも、自分の感情や感覚を言葉にするということはどういうことなのか?
もし、それらを簡単に言葉に出来たとしたら私は・・・・・・
全然嬉しくありません。
何故か? 別に簡単に口に出来る想い・考え方を自分の結論にしたくないとかそういうわけではありませんし、簡単に出来たなら感想を書くのも楽だなぁとは思います。
自分の想い・考え方を言葉にして人に聞かせることが出来るということは、客観的に自分の感情・感覚を捉えて結論を出しているということだと私は考えます。
スラスラと感想を書ける方は、きっとその能力が高いのだと思います。
客観的に自分を見なければ、人に見せること前提の感想など普通は書けないと私は思います。
■ ここで私的我儘理論を振りかざすのですが
私は客観的に見た自分の想い・考え方などすすんで書きたくなどないのです。
それこそ陳腐・我儘と捉える方もいらっしゃるかもしれませんが、客観的でない、まさに自分が想い・考えた事をそのまま映し出したいのです。
どんなに自分が愚かで醜かったとしても、客観的な自分など説明したくありません。
■ しかし
自分の想い・考え方を皆に伝えたいというところにジレンマが発生します。
現にこれを書いている今、私は自分の書きたいことに翻弄されています。
自分の想い・考え方を書きたいだけだというのに、人に見せることを考えざるを得ません。
どんなに辛くとも自分の想い・考えを書きたい。でも、人に見せようともしているから適当なことには出来ない。
■ そこは
やはり、人に見せるという責任があるからだと私は考えます。
私自身、自分の日記を皆に見てもらいたいと日々常々思っています。
しかしそれを行なうならば、無責任なことは出来ません。
私は自分で書いたものには、自分で責任を取らねばならないと考えます。
もし、これを放棄するならば、私は感想など書きませんし書きたくありません。
■ だからこそ
自分の考えや想いが言葉に出来ないのは非常にイライラしますし、人に伝えられない無力感を感じます。
でもそれを経過してこそ、自分にとっていいものが書けるのだと思いますし、人に恥ずかしくないものが書けるわけです。
まあ、人を満足させようと考えているわけではありませんが(そこまで私は傲慢になれません)。
■ 私が出す結論は
ごちゃごちゃ上で言いましたが、結局のところ、自分が書きたいものを、自分が言葉にしたいものを頑張って選んで書けば良いだけです。
焦らず、驕らず、どれだけ時間が経とうとも、どんなに拙い言葉だろうと、どれだけ加筆修正しようとも。
それが自分の書いたものであり、私の言葉になります。
それは、人に評されずとも自分の誇りになると信じています。
それを胸に今日も私はマイペースで感想を書き続けることでしょう。